「昭和SM文化の母」須磨利之
少し前に「伊藤晴雨」の事を書いたので、今回は「須磨利之」を振り返りたい。
目次
須磨利之の生い立ち
SMペディアによると、経歴に「須磨の自伝には創作部分がかなり含まれており、以下の略歴も将来的に訂正される可能性もある。」と記されているが、幼少の頃をみるとこう記されている。
1920年(大正9年) 、京都の印刷業の家に生まれる。須磨家は薩摩藩士で維新後京都に移る。本宅は岡崎で印刷屋は京都駅前。芦屋に別荘。四国で育ったという記述もある。
1927年(昭和2年) 頃、叔父須磨勘兵衛の土蔵で江戸期の黄表紙に描かれた責め絵に衝撃
1930年(昭和5年)頃、土蔵で縛られた母の姿を見る
1932年頃、祖父の蔵書の中にあった『変態風俗資料』という本に責め絵画家として紹介されている伊藤晴雨を知る
SMペディア(須磨利之)
なかなか衝撃的なSMへの体験が須磨氏をこの世界に惹きつけたようである。まだ子供の頃、未亡人の母親が、親戚の叔父に土蔵の中で全裸で縛られ、小水をもらしていた姿を観たことが性癖に大きく影響していたらしい。
また戦争でなんとか生きて日本帰った時に、「日本の女性を全て縛ってやろう」と思ったくらいの、自称「変態」なのだそうた。
戦後SM文化を発展させる
彼は、趣味と実益を兼ね、会席屋で女郎を縛ってお客に提供する、いわゆる「縛られ女郎」屋もやっていたそうだ。お客からは当時のお金で3000円もとっていたとかいうから凄い・ただしそういう無理やり縛った女郎にも、大抵の女郎は困窮していたので、沢山のお金も支払って上げてたらしい。
彼は そういった経験からも、こういったものは絶対流行ると確信し雑誌の「奇譚クラブ」に影響を与え、SM雑誌として変貌させた。
昭和のSM文化の母と言われるのは、多くの人材を生み出しSMの世界を広げ世間に生み出した功績をたたえてのことと思うが、あの団鬼六をSM小説の世界に引き込んだのも須磨氏の影響らしい。
編集長時代にグラビアの女性とかを入れると1000人位の女性を縛ったそうである。だが戦時中に考えていたことは、何一つ実行出来ず自分の欲望を達成するために雑誌を作りを始め絵描きにもなったそうだ。自分が好きな道を歩もうとした結果が、多才な才能に磨かれていったのかも知れない。
「喜多玲子」「美濃村晃」絵師として
母親の縛られた姿を絵に残しておきたいということから、絵描きを目指したとも言っている。
また、金森観陽の描いた子母沢寛『天狗の安』(「天狗の安」という時代物小説が連載されたがその冊子がある意味、SM小説の走りらしい)の挿絵の「女が蔵の中で全裸に後手で縛られている折檻シーン」に衝撃を受けたという逸話もある。
絵師としては、あの伊藤晴雨とも交流があったそうだ。
こちらは代表作の一つだが、入れ墨を彫った女性が柱に縛られ、布一枚で秘部を隠している。
口が苦しいから、また何か言おうとしても、これを離してしまうと全てが見えてしまう、半分白目になりながらもなんと口で必死に咥えている絵である。彼はエロティズムに拘った、繊細でな感覚は、縄師としての彼にも言えることらしい。
団鬼六氏のインタビューでは
「奈良の辻村隆さんという奇譚クラブのほぼ全期に関わった緊縛師がいるが、彼はどっちかというとハードで今の過激なSMに通じるものがある。
ただ須磨氏の縛りとは全く異なっていいる。
ほとんどハードな縛りでなく。現事実的なソフトな縛り
口には豆絞り、女性の髪を7,3で流すなど、エロチズムを現れたらしい
また縄も自分でなめして、一見キツく縛っているように見えても、ソフト縄を使って、女性にはダメージをあまり与えないようにしていたらしい
吊り縄も女性の事を考えてあまりしなかたようである。
本当のSは女性には優しいのかも知れない。
<S&MビデをグラフティSpecial 縄炎 美濃村晃の世界 より>