雪村春樹が遺した縄の流儀⑧
目次
“支配”だけではない雪村流のSM観
SMという言葉を聞いた時、
多くの人が最初に思い浮かべるのは、
「支配と服従」
ではないでしょうか。

命令する人。
従う人。
強い人。
弱い人。
そうした上下関係のイメージです。
実際、
SMを解説する本や記事でも、
「支配欲」や「服従願望」という言葉がよく使われます。
もちろん、
それもSMの一面でしょう。
ですが雪村流を見ていると、
どうもそれだけでは説明がつきません。
なぜなら雪村流の作品には、
「勝者と敗者」
のような空気があまり存在しないからです。
むしろ感じるのは、
“共同作業”
に近いものです。
これは少し意外に思われるかもしれません。
縄を掛ける人がいて、
縄を受ける人がいる。
表面的には明らかに役割が違う。
しかし雪村流では、
どちらか一方だけで成立しているようには見えません。
たとえば茶道を考えてみます。
亭主だけでは成立しない。
客だけでも成立しない。
互いがいて、
初めて一つの時間が完成する。
雪村流の縄には、
どこかそれに近い感覚があります。
つまり、
「支配している人が主役」
ではない。
「服従している人が脇役」
でもない。
二人が作り出す空気そのものが主役なのです。

この視点は、
現代のSM論では意外と見落とされがちかもしれません。
また雪村流には、
「相手を変えようとしない」
という特徴も感じます。
現代社会は、
成長しなさい。
強くなりなさい。
変わりなさい。
という圧力に満ちています。
ですが雪村流の作品を見ると、
恥ずかしがる人は、
恥ずかしがったままでいい。
怖がる人は、
怖がったままでいい。
無理に克服しなくてもいい。
そんな空気があります。

これは非常に興味深い部分です。
支配とは、
相手を自分の思う形に変えることでもあります。
しかし雪村流では、
「その人がその人のままでいること」
を受け入れているように見える。
だから見ていて、
不思議な安心感が生まれるのかもしれません。
さらに雪村流には、
現代ではあまり語られなくなった
「預ける」
という感覚があります。

服従とは少し違います。
服従は命令に従うこと。
預けるとは、
信頼して任せること。
似ているようで、
かなり違います。
雪村流の作品では、
女性が命令されているというより、
少しずつ相手に身を預けていくような場面が多く見られます。
だからそこには、
恐怖だけでもなく、
快感だけでもなく、
独特の静けさがあります。
実は日本文化には、
こうした「預ける」という感覚が昔から存在します。
能楽。
茶道。
武道。
舞踊。
どれも相手との呼吸を合わせることが重要です。
自分だけで成立しない。
雪村流にも、
そうした日本的な関係性の美学が残っていたのかもしれません。
また別の見方をすると、
雪村流は「管理」の対極にあります。
現代社会は、
予定で埋め尽くされています。
仕事のスケジュール。
SNSの通知。
効率化。
最適化。
一方で雪村流の世界には、
余白があります。
何が起きるか分からない時間。
説明しきれない感情。
沈黙。
曖昧さ。
だから惹かれる人がいるのでしょう。
それは支配されたいからではなく、
「管理され続ける日常から離れたい」
という感覚に近いのかもしれません。
雪村流は、
支配と服従の物語として語ることもできます。

ですがそれだけでは足りない。
そこには、
信頼。
委ねること。
共同作業。
余白。
そんな要素が複雑に混ざり合っています。

だから今でも、
単なるSMの技術論ではなく、
「人間関係のあり方」
として語られ続けているのでしょう。
雪村流の関係性を感じやすい参考作品
雪村流の特徴は、
単純な支配や服従ではなく、
・信頼
・委ねる感覚
・関係性
・空気の共有
を大切にしている点にあります。
作品を見る際も、
縄の形だけでなく、
二人の距離感や表情に注目すると、
また違った見え方があるかもしれません。
▼ 雪村春樹 関連作品
次回は、
「雪村流における“見せる羞恥”とは何か」
について、
もう少し掘り下げてみたいと思います。
→ 初めての方へ
https://www.mdamsel.red/beginner
→ FAQはこちら
https://www.mdamsel.red/faq
→ お問い合わせ
https://www.mdamsel.red/inquiry

