雪村春樹が遺した縄の流儀⑨

雪村流における「見せる羞恥」

雪村流について語る時、
意外と見落とされがちな要素があります。

それは、

「誰に見せるのか」

という視点です。

縄やSMというと、
縛る人と縛られる人の関係に注目しがちです。

しかし雪村流の作品を見ていると、
そこにはもう一人の存在しているといわれます。

それが、

「見る人」

です。

雪村流は、
二人だけの世界で完結しているようでいて、
実は“見られること”を非常に意識した表現でもありました。

ただし、
ここでいう「見せる」は、
現代のSNS的な自己表現とは少し違います。

今の時代は、

見てほしい。
評価してほしい。
注目されたい。

という方向に向かいやすい。

一方で雪村流の「見せる羞恥」は、

本当は隠したい。

でも見られてしまう。

その矛盾の中にあります。

この感覚は、
実は日本文化の中に昔から存在しています。

たとえば能や歌舞伎。

感情をすべて説明するのではなく、
少し隠したまま見せる。

「秘すれば花」というように・・

観客は、
その余白を想像する。

雪村流にも、
どこか似た構造があります。

全てをさらけ出すのではなく、

隠そうとしているものが見えてしまう。

その瞬間に意味が生まれる。

だから雪村流の作品では、
派手な演出よりも、

視線の動き。

表情の変化。

沈黙。

そうした小さな変化が大切にされていました。

また興味深いのは、
雪村流の「見せる羞恥」が、
身体そのものより

“心の露出”

を扱っているように見えることです。

人は誰でも、
他人に見せていない自分を持っています。

弱さ。迷い。戸惑い。照れ。

もしくは自己の欲悦した感情や欲求

そうした部分を見られることは、

実はとても恥ずかしい反面、M女性にとっては欲望とも言えます。

だから雪村流で描かれていたのは、

身体を見せることではなく、

「感情が見えてしまうこと」

だったのかもしれません。

さらに雪村流は、
現代の「公開」とも違います。

現代は情報が大量に流れ、
何でも見せることが当たり前になりました。

しかし雪村流の時代には、

見せないこと。

隠すこと。

秘めること。

にも価値がありました。

だからこそ、

少しだけ見えてしまう。

少しだけ知られてしまう。

その瞬間が特別だったのでしょう。

雪村流の「見せる羞恥」は、
単なる刺激の演出ではありません。

それは、

人が他人に理解されることへの恐れ。

そして、

理解されたいという願い。

その両方を含んだ、
とても人間的な感情だったように思えます。

だから今見ても、
雪村流の作品には独特の余韻があります。

何かを見たというより、

誰かの心の動きを垣間見た。

そんな感覚が残るのです。


雪村流の「見せる羞恥」を感じやすい参考作品

雪村流の特徴は、
単なる視覚的な演出ではなく、

・見られることへの意識
・感情の揺れ
・沈黙の間合い
・欲望のやり取り

を重視している点にあります。

作品を見る際は、
縄の技術だけでなく、
登場人物の表情や間の取り方にも注目すると、
また違った発見があるかもしれません。

▼ 雪村春樹 関連作品


次回は、

「雪村流はなぜ今でも語り継がれるのか」

について、
もう少し広い視点から考えてみたいと思います。

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