日本のSMの元祖「責めの大家」伊藤晴雨について
サイトをリニューアルしたこともあり、初心に返って伊藤晴雨に関して少し話をしたい。
目次
伊藤晴雨の生い立ち
伊藤晴雨は東京生まれで父親は元は旗本の子供だったそうだが没落し彫金師を生業をしていたらしい、幼い頃から絵がうまく幼少の頃から絵の才能を発揮していたようだ。8歳で琳派の絵師である野沢提雨に弟子入りもしている。
その後12歳で象牙彫刻師・内藤亀次郎のもとへ丁稚奉公をするが、晴雨は絵描きを志し、奉公をやめ23歳頃から芝居小屋に転がり込み看板絵などを描き始めている。そして幼い頃からの芝居好きだったため、25歳に入社した新聞社で、
劇評も連載して評価されたことで、小説や講談の挿絵、絵師としても
認められるようになたようだ。ただどちらかというと、文筆のほうに需要があったようだ。
27歳で竹尾という女性と見合い結婚している。
責めの大家として
ところが、30代半ば頃から描き始めた「責め絵」により、人気が高まり、そして現代でも晴雨と言えば、「責めの大家」と言われるまでになった。
晴雨が「責め」に興味を持ったきっかけは・・
7歳頃に母親から語られた『ひばり山古蹟松』の中将姫の「雪責め」の物語や
10歳の時の母親に連れられた本所寿座で見た『吉田御殿、招く振袖』の竹尾の責め場にあったようだ。
鶊山姫捨松(豊成館の段)
ウィキペディア(Wikipedia)
岩根は姫を庭に引き出し、観音像をどこに隠したと問い、上着を引きはぎ下部に割竹で打たせる。姫は寒さと身を打たれる痛さに事切れそうな様子であるが、観音像のことは知らないと答えるばかりである。それを見ていた岩根御前はまだ責め様が手ぬるいと、自ら庭に降り、割竹を持って姫を打ち責め苛むのであった。
『吉田御殿、招く振袖』の竹尾の責め場
第16話 『明治の芝居小屋と伊藤晴雨』
「其吉田御殿奥庭の責場で鬼丸(市川鬼丸)の竹尾といふ侍女が責められる場面は凄婉其物であった。
当時は前述の如く電燈の照明が無いので真ツ白に塗った美しい化粧、それはたしかに徳川時代の鉛を中心にした旧式の白粉で人形の様に白一色に塗りツブした化粧、それに漆のように一糸乱れずに結び上げた高島田の髷が、意地の悪い御殿女中の二人に左右から責められる度に島田の根が段々にゆるんで後れ毛が頬にかかり髷がバラバラになる。
其時間が大変だ。今の様に二ツ三ツ打つと直グ引っくり返って了ふのでは無くって真に自然に髷が壊れる。クヅクヅに壊れるのを打って打って打ちのめす。気絶をすると気附を与えて、又気がつくと打つ。竹尾は口惜しさの余り悪女中の袖を歯で噛むと之れを振り切って又打つ。其時間が凡三十分余もあったろうか。
其時私は子供心にも高島田の美しさと女の責場の美しさがゾクゾク頭脳に浸み込んで了って今日に及び、後日責場の研究と迄発展して了ったのでありました」
「此吉田御殿の責場を見たのが後に私の責場研究に没頭して終に一生の事業として、一部の人々には誤解を招き乍らも終始一貫生涯の研究に日もいまだ足らずとして倦まざる努力を続けつつある原因と基礎を作ったのは実に此一日の観劇にあったとすれば、人生の運命と云ふ可きか又宿命といふべきか、何れにしても不可思議な操りの糸につながれて居るのでは無かろうかと考えて居る」
こうした性癖は幼少のころからあったようで、34歳で佐々木カネヨ(お葉)をモデルに責め絵を描く。
ところで最初の「責め絵」のモデルは、晴雨が34歳の時に出会った佐々木カネヨ(永井カ子ヨ)。近代洋画の巨匠・藤島武二のモデルも務め、「お兼」とよばれて、画家や画学生たちのアイドル的存在であった当時12歳の秋田美人。
難しくて楽しい伊藤晴雨の世界【その1】
奔放な彼女に夢中になった晴雨は、モデルとして、また愛人として惚れ込み、精力的に多くの「責め絵」を描き、たくさんの「資料写真」を撮影しました。
そして出会ってから3年後、カネヨは晴雨の元を去ってしまうのですが、後に「今私の画いて居る女の顔は彼女の形見である。」と語るほど、晴雨の創作に大きな影響を及ぼした女性であり、またこの時期は大変濃密な制作期間であったことがわかります。
左:竹久夢二代表作《黒船屋》 右:佐々木カネヨ(大正ガイドより)
ちなみに、この「お兼」は次に、竹久夢二の恋人兼モデルとなり、夢二に「お葉」と名付けられて、切手にもなった夢二の代表作《黒船屋》のモデルにもなっている。
また37歳で最初の妻・竹尾とも離婚し二人目の妻・佐原キセと結婚する。
この女性は晴雨の責め絵のモデルにもなっており、自宅の庭で雪責めをしたり
妊娠中に吊り責めをしたりしている。『臨月の夫人の逆さ吊り写真』
また妻である佐原キセの妹も画室で吊るして撮影もしている。
左:月岡芳年「 奥州安達がはらひとつ家の図」
慶応義塾大学メディアセンターデジタルコレクションより
中:伊藤晴雨が月岡芳年の絵に似せて、臨月のキセ夫人を寒中逆さ吊りにした写真が、變態資料12月25日号(第4号)『臨月の夫人の逆さ吊り写真』が無断掲載されこの写真がもとで第4号は発禁処分となった。
右:伊藤晴雨版画「責絵」ボヘミアンズギャラリーより
責めの研究
その後、関東大震災により財産を失い、3歳若いキセは後に浮気をして晴雨と離婚しているが、晴雨は精力的に江戸の風俗を書き記したりしている。
また、三人目の妻 とし子を娶り、「責め」の分野でもいよいよ個人的な趣向から、性風俗研究家・高橋鐵と知り合ったことも加わり、一層様々な考証、資料の収集にとその研究を徹底し、1928年(昭和3年)に『責の研究』を発行。発禁処分となったが当時の名著とされている。
その後、妻のとし子とは死別、また東京大空襲で家財の一切を焼失し、撮影した写真、画稿、稀書資料のすべてを失うことになってしまった。
非常に残念なことである。そして以降は積極的は出版は行われなかったが、エッセイや自叙伝の執筆は継続的に行われ、生涯責めのをまっとうした。
伊藤晴雨版画「責絵」
伊藤晴雨の責めへの拘りは非常に強いものがある、また物語性もあり単なる責めだけではなく、背景や至る過程を通して責めを感じさせるものがある。
伊藤晴雨という人物が何故ここまで責めに拘わり、執着したのか、そして子供の頃からの憧れを大きく華を開かせたものは何だったのか?
それは、やはり彼に関わった女性のあってのことでしょう。佐々木カネヨ、佐原キセなど彼を虜にするモデルとの関係があって初めて華が開いたのではないでしょうか?責め師には責めがいのある女性が必要、あたりまえのことではあるが、SM男女のめぐり逢いはやはり大切なものである。